東京都下――
武蔵野の原生林に囲まれた広大な霊園を照らすのは、その夜も、まばらな街灯のみであった。厚い雲におおわれた空には、月も星も見えない。
さきほど秋時雨が通り抜けていったためか、墓石の群には、とろりとしたミルク色の霧がたちこめている。小道をはさんだ隣にある洋館の灯は、おぼろな茜色で、ちらちらと揺れていた。
が――いま、その茜色が、なんの前触れもなく消えた。濃霧の中に、洋館の影だけが黒く浮かび上がり、数分が経過しても茜色の灯はともらなかった。
「おかしいな……。街灯はついてるから、ここら一帯の停電じゃないよな」
一階のテラス窓から闇に眼をこらしながら、途方に暮れていたのは宮城篤史である。近隣に他の住宅でもあれば、もっとくわしくわかるだろうが、ご近所に住むのは、墓場の住人のみだ。
退廃的な美貌を彩る長いまつげをしばたいても、ミルク色に染まった闇しか見えない。
右手に握ったペンをながめ、篤史は溜息をつくのだった。 「締め切り前だってのに……困ったなあ。薄井さんから電話がかかってきたら、どうしよう?」
停電だと事情を説明しても、締め切り前の薄井編集者は、それこそ中毒になった漢方胃腸薬の服用量が増えこそすれ、締め切りを延ばしてくれはしないだろう。
「待てよ、停電の場合、電話はどうなるのかな……」 ちらりと希望のようなものが脳裏をかすめたが、停電でも電話そのものは通じるのである。電話機に付属している多機能は使用不可能になるかもしれないが、コードレス電話の子機は、たっぷり充電しているから、数時間は使えるだろう。
「こうなったら、懐中電灯を頼りにするしかないかな……」 だが、その懐中電灯が、はたしてこの屋敷にあるのかどうか。この屋敷の主であるマイナーなミステリー作家、遠野遼一郎の専属イラストレーター兼、愛人兼、居候になって一年以上が経つが、いままでそれらしきものを見た記憶がない篤史が、ふたたび途方に暮れながら、夜霧にかすむ闇の居間をふりかえったときである。
「……!」 人魂のような炎が宙をすべるように飛んできたのだ。まさか季節はずれの幽霊か――
「ブレーカーが落ちたまま、どうやっても上がらん」 おぼろな炎とともに、闇に浮かび上がったのはドラキュラ伯爵――もとい、遼一郎の端麗な横顔である。端麗すぎて、ただでさえ怖いのに、古めかしい銀の燭台を片手に立っている姿は、なおさら不気味だ。
「驚かすなよ……」 背筋に冷や汗をかきながら、篤史は胸をなでおろす。しかし、蝋燭とは。この屋敷には懐中電灯のたぐいはないのだろうか。
「あの……ブレーカーが落ちたままって?」 許容電力以上の電気を使えば、ブレーカーが落ちることもあるが、この屋敷には、エアコンはもちろんのことTVさえないのだ。まして、普通ならブレーカーを上げれば、停電もおさまるはずだが――
「考えられる可能性としては、漏電だな」 蝋燭に照らされた不気味な顔で、遼一郎がそっけなく答えた。「この屋敷も老朽化がはなはだしいからな。さきほどの雨で、どこかの回線がショートしたのかもしれん」
「漏電って……そんな――困るよ。この時間じゃ東京電力だって来てくれないだろうし……」
「明日の朝まで待つんだな」 「そんな……だって、締め切りは明後日だよ?」
「今夜のぶんは明日描くんだな」 締め切りぎりぎりに描いているのは、例によって遼一郎の原稿が遅れたからなのに――まるで他人事のように冷たく答えた遼一郎は、薄い唇をゆがめて笑うと、篤史の肩を抱き寄せて、蝋燭の炎をかざした。
「……あの……遼一郎?」 「蝋燭の灯りだけ――というのも、古典的でおもしろいかもしれん」
「……古典的って、なにが?」 篤史が首をかしげる間もなく、遼一郎は燭台をどこか(どうやらテーブルらしい)に置くと、素早い手つきで篤史のトレーナーをまくりあげた。続いて長い指が、ベルトをはずす。
「あの……遼一郎、古典的って……まさか……」 不吉な想像が脳裏をかけめぐっても無理はない。夜ごと夜ごとの変態サド(マゾ)が、いままた始まろうとしている現状に、蝋燭という新手のものが登場したのだ。ただの灯りの役目ならば、まだいいが……。
「あの、俺、火傷するのだけは厭だからねっ!」 ソファに倒されながら口走ると、遼一郎はその声を唇でふさぎ、耳元に息を吹きかけながらささやいた。
「ほう? ということは、焼身自殺だけはしたくないらしいな」 「当たり前だろ? それと、餓死するほどの勇気もな……痛っ!」
左手首の包帯を強く握られ、過去二十一回に及ぶ自殺未遂の痕に激痛が走った。最後の抜糸は済んだから、傷口が開くことはないはずだが、それでも痛い。たとえ傷痕がなくても、これほどの力で握られたら、だれだって痛いだろう。
「残念だな。火葬の手間が省けたのに」 低いささやき声と同時に、ジーンズのジッパーが降ろされて長い指が侵入してきた。思わず吐息をもらし、のけぞった視界には霧にかすむ闇だけだ。いいかげん闇に眼が慣れてもいいはずなのに、蝋燭の炎をどこかに感じるからか。
懐中電灯とは比較にならないほど弱く小さな光源――けれども、はっきりと、蝋のとける匂いがする。どこか懐かしく、いっぽうで、背筋が寒くなるような怪奇さも感じる匂いが、嗅覚と同時に下半身の快感をさらに刺激する。
「おもしろい。鳥肌が立っているな」 まるで動物実験を観察するかのような声で笑った遼一郎の指が、焦らすような途切れ途切れの動きになった。
「この……変態サド!」 「ワンパターンの台詞だな」 「変態サドは、変態サドだろ? ……ねえ、頼むよ」
頼んだところで、遼一郎が焦らすのをやめてくれるはずはないと承知しているのだが、肌の震えがどうにも止まらないのだ。
荒い呼吸音のあいまに、じじじ……と、かすかに聞こえるのは虫の鳴き声か。それとも、蝋のとける音か。とけた蝋の匂いに、蝋燭の芯が燃えるきな臭さが混じって、見えない視界の闇には、蜜のような淫靡な気配が空気をねっとりと粘つかせている。
篤史の下肢にも熱がこもったままで、寄せては引いてゆく快感に、眼を閉じて唇を噛みしめ、身をよじってこらえていると、ふいに頬のあたりが温かくなって、同時に明るさを感じた。
眼を開けると、蝋燭の炎に照らされた遼一郎の顔があった。炎の色が高い鼻筋に濃い影を映して、吸血鬼と蝋燭の取り合わせは、よく似合う――いや、そんな問題じゃない!
「よせ、変態サド! 蝋が垂れるだろ?」 「たしかに、この傷ひとつない肌に火傷をつくるのは忍びない」
長い人差し指で篤史の胸を撫でた遼一郎は、切れ長の眼を細めて笑い、次に篤史の左手首を取った。「この手首なら、もともと傷だらけだから、かまわんだろう?」
遼一郎の薄い唇は皮肉な笑みをたたえていたが、鋭い眼は、笑ってはいなかった。
本気だろうか? 本気で左手首に熱い蝋をしたたらすつもりだろうか?
「バ…カ! よせったら!」 思わず叫び、必死に逃げようとしたが、左手首を握った力は強く、炎の先端が、いまにも包帯の結び目に触れようとしている。「やめろったら! なんでもするから……」
左手首が熱い。包帯の焦げる匂いがする。 「この変態サド……」
くやしまぎれにワンパターンの罵倒をくりかえしながらも、篤史は抵抗をあきらめていた。
包帯の下には、見るも無惨な無数の傷痕が皮膚をひきつらせているのだ。醜くて汚い傷痕に、いまさら火傷のひとつが加わったとて、なにを嘆くことがある? だいいち、手首を切ったのは自殺常習者の篤史自身ではないか――
篤史は眼を閉じて、身構えた。熱いだろうか? いや、熱いに決まってる。
と、ついに結び目が焼き切られたのか、包帯がゆるんだ感じがした。
次だ――! 篤史が息をひそめたときである。 ふっと、炎の消える音がして、左手首の傷痕に、なにか柔らかいものが触れたような気がした。おそるおそる眼をあけたが、あたりは闇一色だ。
「なかなかのスリルだったろう?」 耳元で笑う声が聞こえ、首を力強い腕に支えられていた。頬に吐息がかかり、闇の中に、かすかに遼一郎の顔が見えたかと思ったとたん、唇をふさがれていた。
「……この変態サド! 脅かすなよ……」 精一杯、怒った声を出そうとしたのに、甘い響きになってしまったのは、素肌に遼一郎の体温を感じたからだろうか。
コットンシャツの布地越しで、蝋燭の炎の熱さに較べれば、冷たいほどだ。けれども、篤史の震えはいつしか止まっていた。無意識に手が伸びて、手さぐりでシャツのボタンをはずすと、闇に衣ずれの音がして、遼一郎の体温が直に触れた。
「闇の中で――というのも風流だが、おまえの顔が見えんのは、つまらんな」
すぐさまあえいだ篤史の耳に、そんな声が聞こえたような気がした。が、今度は焦らされることもなく、両脚を抱え上げられると同時に押し入ってきたものの熱さに、体内のどこかでなにかが燃え上がったのだけを感じていた。
蝋燭の小さい炎など比較にならないほど、大きな炎が、たしかに、どこかで燃えている。
テラス窓から夜気に乗って入ってくる霧は、いつしか薄れていた。雲が晴れたのか、遅ればせながらの月明かりが、居間のソファで、もつれあうふたつの影だけを照らしだす。
蛇足ながら―― 翌朝、遼一郎がまだ寝室で眠っている間にやってきた東京電力の職員は、玄関扉の上にあるブレーカーを点検したのち、こう言った。
「お客さん、冗談で漏電だなんて言っちゃ困りますよ」 「冗談のわけないだろ? 現にブレーカーが上がらなかったんだし……。ほら、この玄関ホール、よく雨漏りするから、そのせいでどこかの回線がショートしたとか」
今夜も電気がつかないと困るので、篤史は廊下に置かれた空き瓶や空き缶を指さしながら素人判断を口にしてみた。昨夜の時雨で、空き瓶には、雨漏りの水が溜まっている。
しかし、東京電力の職員は、怪訝そうに首をふり、 「そりゃ、雨漏りが直接ブレーカーにかかったとなれば、話は別ですけどね。屋内用のブレーカーだから、防水カバーで保護されてませんし。でも……この位置じゃ、どう見たって雨水がかぶったとは思えないんですがね。そんな形跡もありませんし」
そう言いながらプラスティックの外枠をもとに戻した職員は、落ちたままのブレーカーに手を伸ばした。
次の瞬間、するりとブレーカーが上がったかと思う間もなく、天井の蛍光灯がついたのである。
「お客さん……。本当にブレーカーが上がらなかったんですか?」
当惑げな東京電力職員の声は、篤史の耳に入らなかった。呆然と朝陽におぼろな光を投げる蛍光灯を見上げながら、胸のうちで、ワンパターンの罵詈雑言を繰り返していたのだった。
「あの……変態サドめ! わざとブレーカーを落としたな!」
(終)
(作者注)良い子のみなさんは、危険ですので、くれぐれも遼一郎の真似をしたり、火遊びをしたりするのはやめましょう。
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